「日本には四季があるから」という皮肉?のお話。

よしなしごと

この季節になるとつくづく思う。日本人は本当に桜が好きなんだな〜〜。

いや、なんというか・・・桜が好きだとか特段に意識することすらない。乳児が母親を追うがごとく、本能的に桜を愛でる、日本人は長い歴史でそんなDNAを育んできたに違いないと思う。

街や山のどこにでもある桜だけど、見た目だけでも色々な種類があるもんです。品種名としても見た目からも分かりやすいのは、やはりソメイヨシノ。あと、品種名なのかどうかは知らんけど、枝垂れ桜。枝垂れてたらとにかく枝垂れ桜というけど、これにも細かい種類があったりするのかな?

あと、よく山桜とか寒桜とか聞くけど、それらがどの桜なのか、わしゃ知らん。

調べてみようと思ったけど、面倒臭いのでやめた(笑)。何桜だろうが、桜はとても美しい、それで十分。庭師を目指すわけでもなし。

そんなこんなで桜なんかを愛でてると、ふと最近よくネットで目にするヤツを思い出した。

ジョークというよりは、いわゆる「日本sage」に使われることが多いんだけど、

「でも日本には四季があるから」

というやつ。

日本の「四季」を誇らしい文化だと感じることを、いやどこの国にも四季はあるだろ、と揶揄するところからネタ化してきたんじゃないかと思う。

例えば、以下のツイートのようなやつ。日本にとって何か悪いニュースがある時、反論のような形で「でも日本には四季があるから(震え声)」みたいな用法ですなw

で、こういうワードを冗談として使ってるうちはいいんだろうけど、そのうち本気で言い出す人が増えてきたようで。例えば、ちょっと古い話題ですが、厚切りジェイソンが「四季はどこにでもあるよ」と、ネタではなく本気で言ってたとかいう話を読むと、やはりアメリカ人に日本人の四季の捉え方は理解できないんだろうなぁと思ったり。アメリカにも四季はある、確かに。ただ、日本人が言う四季ではなく、単に季節の区分としての四つの季節がある、というだけです。まあゼロじゃないだろうけど、「四季」が育んだ文化のようなものはいくらアメリカで暮らしてみてもそれほど感じることはできないぞ、と。

「日本には四季があるから」でググってみると、このことを論評したような文章も沢山ヒットします。

まあ、大体は「どの国にも四季があるぜ」「でも日本は四季と密接に結びついた文化があるんだぜ」「そんなん他の国にもあるぜ。ビバルディの四季を知らんのか」みたいな感じでしょうか。

で、ちょっといくつかプロのライターさんの記事を流し読みしてみたんですが、一番重要な点に着目してる人がゼロ(読んだ範囲では)だったので驚いた。あれれ?という感じ。

私が一番重要だと思っているのは、文化的にみた人間と自然との関わり方というものが、日本と欧米では全く違うということなんです(欧米と言っても広いですが、キリスト教圏とイスラム教圏を考慮したら大体カバーできますかね?)。自然に対して人間がアジャストするのが基本だった日本と、自然は人間が支配するものとして神によって与えられたものであるという欧米(キリスト教以前には日本のアミニズムのような土着の信仰は結構あったらしいけど)。日本と欧米で「四季」をどう捉え、日常に組み込んでいくか、ということが根本から異なるのは当然のことです。それがすなわち文化というもので、欧米にも四季はあるし、季節にフォーカスした文化もある程度存在することは当然としても、日本のそれとは根本的に異なるのです。決して、季節による自然の表情の変化というものが主役になることが世界の普通ではない、ということです。

たぶん、こういったことは日本人ほど気付かないと思います。当たり前すぎて意識することがほとんどないし、そもそもそんなことを意識する必要がない(笑)。それがすなわち文化ですから。

まあ、でもあれですな。ネットの功罪といいますか。こういう冗談話が広がると、冗談を冗談として受け取れない人も一定数出てくるわけで、それが「四季はどの国にもあるじゃん」と鬼の首でも取ったかのように書き込むことで己の無知・無教養を晒してしまうという、こういうパターンも一つのテンプレ化してるようにも思えます。

厚切りジェイソンの場合は、外国人なので仕方ないよね、となるが、日本人がこの言説に乗っかってしまうと単なる無知・無教養な人ってことになっちゃう悲劇。厚切りジェイソンはその責任を取ってはくれないwww

ただ、だいたい匿名とかなので特に誰がバカとかいう話にはならないのでいいのですが、プロのライターでもこういうのに乗っかる人がいるのには甚だ呆れてしまう。猛省すべし。

収拾つかなくなってきたのでこの辺で。

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